ハイコンテクストな日本の文化:視点の違い

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「日本の文化はハイコンテクスト」といわれています。言葉に出さなくても理解できていることが多く、会話では細かい背景をいちいち説明なくても理解しあえる。阿吽の呼吸などがよく引き合いに出されます。私は仕事柄、外国の人たちと接する機会が多いのですが、まあその通りかなと思いつつも、明確にこれを感じたことがありませんでした。

今回、日本に住んでいるイスラム教徒のお墓の報道で「これがハイコンテクストかな」と思える事例がありました。

最初は、日本のメディアから知りました。イスラム教徒は土葬ですが、日本は火葬が一般的なので、なかなか墓地がないそうで、なんとか自分たちで購入する土地を見つけたが、地域の一部から反対を受けているということでした。

私がふれた日本の報道はほぼ基調で問題を扱っており、イスラム教徒の習慣と日本の墓地の事情、そして墓地の取得にまつわる問題というところで終わっています。

私はこれを見ながら、この問題を地域住民の理解を得られていない件、つまり廃棄物処理場やダムの建設と同じジャンルに無意識に入れていました。

私の見方が変わったのは、この1週間くらい後に、イギリスのEconomist紙が同じ問題を扱った記事を読んだ時です。その記事の最初は日本の報道を同じ論調でしたが、途中から視点を変え、日本の多様性の受け入れへ論を移し、肯定的な論調で締めくくっていました。

私がまずハッとさせられたのは、多様性という視点です。確かにこれは外国の人たちの目から見れば多様性受け入れの問題でしょう。私は無意識のうちに、この視点を外に置いていたようです。

あとから詳しく調べてみると、一部の報道機関や国会議員が多様性の観点から問題を指摘されていました。日本人が見過ごしやすいが、わかる人が見れば気づくことです。

次に驚いたのは、Economist紙の記事が日本の受け入れ努力に比較的肯定的な論調で結んでいた点です。どうしたら肯定的できるのか、ロジックが理解できない、というのが本音です。先ほどの多様性を指摘された日本の方たちは、いずれもこの問題を肯定的にはとらえていません。

さて、私自身の経験をふりかえると、外国で働いているとこのようなロジックの飛躍がよくあったことを思い出しました。会議をして、ある問題の分析や対策を考えていると、時に(私にとっては)とんでもない方向へ議論が発展することがあります。これは慣れていないと冷や汗ものです。最初の頃は、どういう論点が出てくるか予想して準備しようとしましたが、最近はあきらめました。異なる視点は出てくるもので、時に自分が予想しない方向へ進むこともありますが、これもいいかなと認めることにしています。

これは日本人にとって理解するのが難しいことかもしれません。日本人同士の会話では、細かい背景をいちいち言わなくても済むので、比較的早く結論に至り、その過程も予測しやすいです。他方、外国の方たちがそこに入ると、背景をいろいろと説明しなければならないだけでなく、日本人にとって論点がいきなり飛躍する様に感じることも多くあります。これはコミュニケーションの取り方の違いなので、日本と外国のどちらか片方が正しいということはありません。

ただし、日本のハイコンテクストの度合いは世界の国の中でもかなり高い、つまり、日本は特殊なのだということは覚えておくべきでしょう。私は、「自分が当たり前と思っていることが実はそうでもない」と肝に銘じて物事に接しています。■